ラベンダーさんの育て方

植物擬人化小説

第19輪 ビッグ・サンタとハーデス

ジョン、ビッグ・サンタになれよ。ぼくが次のハーデスになるから

若き日のハーデス

 

Mr.ハーデス

 

 

 ひゅっという息が、少女のか細いノドから抜けた。
 倒れるペパーミント。ぴちゃりと廊下に広がる赤い海。
なのに、心はどうにも動かない。
 ペパーミントが倒れたのに、感情がわき出てこない。
マノンの心はマヒしていた。

……何も感じない

「なにぼさっと突っ立ってるんだ、行くぞ!」マノンの様子に気づいた三太。走れと背中を押してくる。煙の中から大きな腕が出現した。ふたりは走った。
「気を強く持って! じゃなきゃ侵される、空気もなるべく吸うな!」
 走っているのに吸うなとは、むずかしいことを言う。マノンの顔は無表情だった。だが、逃げなきゃいけないことは理解していたし、いまやることもわかっていた。のに、頭と心、体がどうにも鈍い。
三太はその小さい背に、自分より何倍も大きいハーデスを引きずって走っている。
重そうだが、さすがにマノンには手伝わせられないと判断したらしい。
 マノンは視界の隅がぼやけてきたのを感じた。涙がたくさん流れている。ペパーが刺されたのだ。このままだと死んでしまう。早く助けなければ。
ペパーミントがやられた悲しみが、やっと心から出てきたとき、その気持ちに隠れて体の奥からドロドロした黒い感情も出てきた。
 自分の痛みにさえ耐えられないくせに、一輪の花も助けられないくせに、世界を救おうとしてるんだから、バカみたいだ。ただの人間のくせに、いきがって、夢を見て、あきれる。人間は人間らしく、社会の歯車として機能していればいいのに。何の役にも立たない、もっともらしい勉強をして。頭が良くなったふりをして。男の人と結婚して。子供を作って。家庭を支えて。周りのことなんか気にせず、バカで自分勝手な人間らしく、忙しいって言い訳して、満たされたふりして生きていればよかったのに。本当に、バカみたい。バカみたいだ。痛い。なにもかも。どうせ逃げたって、みんな殺されるんだ、あのバケモノに。それか、マイナデスコールに侵されて、怪物になってずっと、ずっと……。
 ずっと、サンタ界でさまよい続けるんだ……

――なんで霊能力者なんだろう! 魔女だってバカにされて、ふつうの人間になりたかった

 ハーデスを背負った三太は、マノンの様子に気づくはずもなかった。通路をうろつくサンタを倒すのに必死だ。仲間を呼ぼうと奇声を発する前に、なんとか片づけている。
 マノンはペパーミントの香りの効果がうすくなってきたことに気づいたが、自分でも、わき出てくる黒い感情を抑えられなかった。
 まだ14歳のくせに、大人ぶって、ごめんなさい、弱いくせに、人間のくせに、強がってごめんなさい。何も、できませんでした。みんなの足をひっぱって、迷惑かけて、ペパーを死なせて、三太くんもハーデスさんも、わたしのせいで死んでしまう。それか怪物になって――。
 わたしは愚草だ。雑草だ。せっかくラベンダーの弟子になれたのに……ラベンダーは、どうしてこんなできそこないを弟子にしたんだろう……。人間が花になれるわけなかったんだ。
自分の気持ちだけでここまで来てしまって、死にかけている。最低だ、合わせる顔がない。
そのとき、腕時計が目に入った。タイメックス社の腕時計だ。家を出てから、どれくらい経った? 時間がわからない。1日? もしかして2日? ひょっとすると1週間かもしれない。狂ったように動きまわる針からは何も読み取れない。役立たず! 
誰だよ、こんな壊れた時計プレゼントしたヤツは! ――――

――なんだ、やっぱり人間にはムリだったみたいだな。ま、はなっから期待しちゃいないが。

太陽みたいな声が聞こえた。現実? それとも幻聴? 脳がもう、限界みたい。
……女好きで、どうしようもなく軽口で、皮肉が大好きで、むかつくのに、親しみやすい香りを出して人の心にズカズカ入ってくる少年の、顔の輪郭が思いうかんだ。ちょっと前まで一緒にいたのに、それは夢から覚めたあとのように、顔が影になってうまく思い出せない。思い出せないけど、のに、たしかにやさしく笑いかけてくる。柑橘系の果物のように、無神経で押しつけがましく、強引に人を引きよせる甘い笑顔。わたしのお兄さん! 家族!

――お、れん、おれんじ、オレンジ、オレンジぃ

そうだ。もしこのまま、サンタ界を救わなかったら、オレンジまで枯れてしまうんだ。わたしがしっかりしないでどうするんだ、マノン・ガトフォセ! 世界大戦、核戦争、森林伐採、キリスト教の暴走、誰が止めるんだ! わたししかいないだろ、マノン・ガトフォセ!
ラベンダーが弟子だと認めてくれたんだったら、頑張らなきゃ!
オレンジが枯れたら、ラベンダーは誰と付き合うんだ!
オレンジが枯れたら、ラベンダーはもっと頭がおかしくなっちゃう!
人間の世界は、他の世界に迷惑かけてばかりだから別に滅んでもいいけど、あの二輪が結ばれないのは――

――絶対にやだ!!

やだもん。
どっと汗がふきだす。玉のような汗だ。あと少しで、たぶん堕ちてた。
 マノンはひやりとした。いままでぼーっとしていたのにサンタたちに襲われなかったのは、三太が銃で他のサンタたちを撃ったり、防犯ブザーを投げて注意を引きつけてくれたおかげだ。もし戦闘になっていたら、あっという間に終わっていただろう。
はっと瞬間的に振り返る。ビッグ・サンタは来ていなかった。振り返った振動で頭にいなずまが走ったような、神経を切り裂くような痛みが走る。
――ッつぅ
あいかわらず目眩がひどいし、頭痛がする。何より足元もおぼつかない。この通路がやわらかい肉の床ではなく、まだ木の床でよかったと思う。
 サンタ界に来るまでは、この頭痛もなんとか我慢できていた。しかしマイナデスコールに侵されてからは、キリキリとしめつけられる、辛く、苦しい、痛みになってしまった。頭が砕けて、いまにも脳や眼球が飛び出しそうだ。霊体でこれだけ痛いのだ、本体は重症にちがいない。
 マノンは頭痛の一番の原因が何かわかっていた。幽体離脱するときに、絵画に強く頭を打ちつけたことだ。魂が次元を超えて、これだけ本体から離れているのに、脳にダメージを受けていることがなぜかわかるのは、魂と身体が見えない糸でつながっているからだろうか。
 頭のことをオレンジに隠してまで、ここまで来たんだ、絶対にサンタ界を救ってやる!
 いや、そもそもそれがいけなかった。この頭痛のせいで、ペパーミントと逃げているとき、意識が飛んで迷惑をかけてしまったのだ。あのとき近くに観覧車がなければ、どうなってたか。わたしがいるせいで、サンタ界を救うどころか、みんなの命まで危険にさらしている。
最っ低の女だっ! ニンゲンって言われてもしかたがない。
やっていることは人間の評判を上げるどころか、むしろその逆だ。
マノンは腕時計をかなぐり捨てた。最初から24時間以内に戻れば安全なんてルール、破綻してるくせに、いつまで自分の心配してんだ、いいかげん死ぬ気になれよ! 
ペパーミントに申し訳ないだろうが!
そして時計を拾い、ポケットにしまう。ヒトのものだ、返さなきゃ。
木を抜くな! わたし!!

 三太の――もといハーデスの背中を追いかけてしばらく進むと、広い円形の空間に踊り出た。タワーの中のように天井が見えない。
 壁にある額縁には、おそらく名の知れたサンタたちと思われる写真が飾られている。その中にはビッグ・サンタの姿もあった。マノンは後ろを振り返る。あいつはまだ来ていない。
「――すごい坂」
「ここはポロ・コロ。サンタ界の観光名所のひとつだよ。いまは封鎖されてるけど、昔はトナカイのレースをここでしてたんだ。ここを登れば――頂上に着く」
 ふたりは顔を上に向ける。見上げた先、ぐるぐるとらせんを描く坂は闇に吸いこまれるように一点に集中している。夜空に輝く星のように遠い。このらせん状の坂を登れば、頂上。
「ここを、登るの?」坂にはやはり、サンタたちがうろついている。
「飛んでいこう」
「でも、ハーデスさんはどうするの?」
 いくら三太でも、ハーデスを運んでは飛べないだろう。マノンはハーデスを通して、頭の上で草冠をゆらす王子さまの姿を見た。ペパーミントが救いたかったヒトだ、置いていくのはしのびないが。
「そうだね……。あ、そこのロッカーにしまっとくのは?」
「え……ろっかぁ?」まぬけな声が出た。ロッカーって……。
 三太は近くにあったロッカーにハーデスをしまった。古ぼけてサビついている。「よいしょっと」
「え、ちょっと」
「でも、運んでは飛べないし、ここだったら、たぶん安全じゃない? サンタ界を浄化するまでの少しの間だけだよ」
「――うん、まあ、それなら、いいかも……」
「決まり」
 マノンは、目的だったヒトの扱いがこんなんでいいのかと疑問に思ったが、他にいい案もうかばないので納得することにした。
「それじゃあ、飛ぶよ」三太はひざを曲げると――
ふたりはジャンプした。次の瞬間――しかし、姿は変わらなかった。とたっと着地した。
「もうおしまいだわ」マノンは自分たちの状態をさとった。
「もう一度だ、ここを飛べば頂上なんだ、がんばろう」
 しかし何度やっても結果は同じだった。悪さをしてクリスマスプレゼントがもらえなかった子供のように、マノンと三太は絶望した。
「ねぇ、どうするの? この坂を、登っていくの?」
「……」三太は黙りこくった。「三太くんってば!」マノンが三太の肩をゆらしても、顔をそらして何も答えない。
――ガゴン
そのとき、ロッカーの扉が開いた。中からハーデスが出てくる。ふらふらとよろめいた姿は、あのギリシャ神話に出てくる神のイメージとはほど遠い。
「待ってくれ、ペパー」ハーデスはマノンにそう言った。
「わたしはペパーじゃないわ、マノンよ」
 ハーデスはマノンをまじまじと見た。マノンのことを不思議そうに見ている。
「ペパーミントはどこに? なぜ君が、この香りを」
「ペパーミントは――ビッグ・サンタに……」
「……」
口の周りからあご、もみあげまでヒゲが生えた男性は、IT企業のオフィスが似合うインテリな雰囲気をただよわせており、眼鏡の奥からのぞく好奇心を隠そうともせず、次々にマノンに質問した。
「君は、非物質界の住人じゃないね。生きてる人間が、どうしてここに?」
「え……とっ」マノンは答えようとしたが――
「そもそも、ここはいったい、どこだ? サンタ界に、似てる気がするけど――そうだ、僕はサンタ界にいたんだ。いや、それにしては霊質が悪すぎる、どこの世界?」
「ここは、サンタ界です。マイナデスコールのせいで、こんなふうになってます」
「サンタ界でテロが起こったの? やられた、やはり無理にでも、銀狐を連れてくるべきだった」
 ハーデスの顔はやつれて声もしゃがれていたが、口は元気によく動いていた。目をつむって声だけ聞けば、ハーデス本人も元気だと錯覚するほどに。
三太が言う。
「ペパーミント皇子は、腹をチェーンソーで貫かれて、倒れました。安否はわかりません」
「そうか。ここは……ポロ・コロだね。芳香器を使って浄化しようとしているのか。良い作戦だ」
「理解が早くて助かります。一緒に来て頂けますか?」
「もちろん。あ、一応聞いておくけど、君たちは植物至上主義者じゃないよね?」
「ちがいますけど、もしそうだとしても、言わないですよ」三太は笑った。
「はっはは、そりゃそうだ」どこか乾いたように笑うハーデスは、場を和ませようとしているようだった。しかしマノンはいらついた。自分の息子が危機に瀕しているのに、笑っている場合なのだろうか。愛していないのだろうか。
「あの、ペパーミントが倒れたのに、悲しくないんですか」
 ハーデスは優しく微笑んだ。お母さんみたいな、慈愛のある笑顔。マノンは反応に困った。
「ありがとう。君みたいなやさしい子も、昔はいっぱいいたんだよ。僕は冥王だから、自分の感情では動かない。感情に流されていまやるべきことを見失えば、全部ダメになる。そうだろ?」
「――。」まるで自分のことを見透かされたような、ジグソーパズルの空白にぴったりと当てはまるように、それはマノンには必要で適切な言葉だった。心を波が打つ。
「上に行くんだろ? 僕なら助けになれる、背中に乗って」
 そう言うとハーデスは、目をつむって両腕を羽ばたかせた。
「何してるんですか?」マノンは恐る恐る聞いてみた。
「何って……――!」自分の体を見たハーデスは、みるみるうちに顔が真っ赤になった。鳥に変身したと思っていたのだろう。恥ずかしさのあまり、唇だけはアヒルみたいになっていた。
「そうか、僕もかなり侵されてるな。いまのはここだけの秘密にしてくれ。あぁ恥ずかしい」
 マノンはハーデスのことをかわいいと思った。
 しかたなく三人はらせん状の坂を登り始めた。坂のいたるところに侵されたサンタたちがいて、頂上に行くのは困難かと思われたが、ハーデスが念力で次々にサンタたちを取り除いてくれたおかげで、このまま順調に行けば頂上はすぐかと思われた。
ヴィンテージもののワインのように芳醇な木の香りがするポロ・コロは、世界樹がまだ生きている木だということを教えてくれた。木の中で吸う空気は、外で吸うのより何倍も栄養があるようで、いい匂いがする。世界樹の他の場所は生活臭やマイナデスコールの臭いがして好きになれなかったが、ここだけはちがうとマノンは感じた。もっとも、堪能している場合ではなかったが。
マノンはたびたび後ろを見たが、ビッグ・サンタは追いかけて来ていなかった。もしかすると、もうあきらめたのかもしれない。
坂も半分を超えたところで。
「君は〈トオルヨくん〉派かあ~。わかるけど、僕はやっぱり〈ボソボソさま〉だな」
「ほう! 〈ボソボソさま〉とは、こりゃまた、通ですね。こっちは、今世紀こそは、〈ドコドコ〉さん〉の人気を、上まわればと思ってます」
「僕はね、もう自分の、押しOBAKEが、どうなってもいいんだ。だって人気がなくても……はぁ、〈ボソボソさま〉は、〈ボソボソさま〉だろ?」
 状況をひとしきり確認したハーデスは、三太とOBAKE談義に花を咲かせていた。顔色は悪く、息切れも激しい。ふたりとも、いますぐにでも正気を失いそうだった。
ふたりの後ろを歩くマノンはマイペースだなと思ったが、なんでも、そうやって話し続けて頭を動かしたほうが、自分を保ちやすく、マイナデスコールに取りこまれないコツらしい。
マノンはしまったと思った。ここはサンタ界だ。フランスでの自分の行動範囲のアドレスはすべて暗記しているが、このサンタ界のアドレスがわからない。いま〈ドコドコさん〉に襲われたら、いっかんの終わりだ。
 コツン、コツン。
 コッコッコッ。
 マノンは心臓が飛び跳ねた。シックな赤い壁の外から音が聞こえる。
 ――ど、〈ドコドコさん〉!!?
 コツン、コツン。
 コッ。コッコッコッツ。
 な、何の音だろう? どこかの壁を外から叩くような、石を投げつけるような音が聞こえる。
マノンは耳をすましてみた。聞こえるのはハーデスと三太の笑い声だけだ。気のせいだったのだろうかと思ったとき、また壁から音が聞こえた。数歩先の壁からだ。近づくと、また数歩先から音が聞こえた。
「あれ、あの子は?」とハーデス。
「あ。マノンちゃーん!」
ここで普段のマノンなら、用心深く注意したかもしれない。しかし、ぼーっとしていたマノンは何気なく叩いてしまった。コンコン。それは冥界の門だったのかもしれない。
……。何もない。やはり自分の勘違いだったのだろう。急がないと三太たちから離れてしまう。そう思い足を早めた。次の瞬間。
――ドゴオオォォン!
いきなり世界樹の壁に穴が開くと、それは出てきた。
マノンは頭が真っ白になった。急いで逃げる――
三太とハーデスも頭が白くなった。そしてすぐに恐怖の黒が点々と浮き上がりだす。4メートルの巨人、ビッグ・サンタが坂をゆらしながら歩いてくるからだ。その前にはちょこんと、小さい赤髪の女の子が走っていた。
 マノンにはもう、限界だった。ハーデスと三太が腕を振って急げと合図してくるが、全身の神経、筋肉、臓器がもう、言うことを聞いてくれない。脳しんとう。マイナデスコール。香りによる痛みの無視、無理な肉体強化。サンタ界あと地からの飛行、サンタ界へ来てからの苛酷な運動。マノンの霊体がストライキするのも、あたりまえだった。
それでも脚を動かそうとした――が、もつれて転ぶ。
恐ろしい足音が響き、地面から伝わった衝撃で心臓も働くのをやめた。
それなのに、悲しいことにマノンの意識は飛ばず、ひたすら苦しみながら後ろからやってくる恐怖を、ただ待つしかなかった。

――ごめんなさい

何かに対してあやまった。

一秒が永遠のように感じられる。

心臓が止まっているのに、意識がまだある。

そして、後ろから何かが振り下ろされる気配がする。
直感で死ぬことを理解したとき人は、
こんなにもふわっとした感じなのだろうかとマノンが思ったとき――。

「ジョン! 僕だ、ハーデスだ! ビッグ・サンタともあろうものが、情けない! しっかりしろ!」
 ビッグ・サンタの拳を受け止めたハーデス。一体彼のどこにそんな力があるのだろうか。体を活性化させたハーデスからは金色のエネルギーがほとばしり、まぶしく輝いていた。
「てやァ!」ハーデスは、ビッグ・サンタをそのまま一本背負いして鮮やかに床に押しつけた。そのままもみくちゃになる。
 三太がマノンのそばへ駆け寄り、起こしてくれる。硬直した体、不自然に固まった表情から心臓が止まっていることを見抜くと――心臓に一撃を入れる。
「げほっ、お、っ、がっほ!」
 呼吸を取り戻したマノン。あえぎながら、ゆっくりと起き上がる。
 三太が自分のエネルギーを分けてくれたおかげで、マノンはなんとか立ち上がることができた。体がちゃんと動いてくれる。ハーデスさんを助けなきゃ。
「僕はいい、逃げて! 君たちが――」
「危ない!」マノンは叫んだ。
 ビッグ・サンタの大きく開いた口の周りでは、小さな光のつぶつぶが現れては消え、一点に集中していた。明滅を繰り返し――
口からビームが放たれた。すさまじいピンク色の光線がハーデスを襲う。馬乗りになっていたハーデスは間一髪、両手で防いだ。飛び散った光線が周りの坂、あるいは上下の坂を破壊した。爆発して崩れた坂からサンタたちが、奈落の底へと落ちていく。
「行ってくれ、サンタ界を救ってくれ、僕が食い止める!」
 ハーデスは身動きができなかった。衝撃で腕をふるわせている。光線を押し返すこともできず、蛇口から出る水のように放たれ続ける光線をなんとか、そらすことで精いっぱいだった。
「行こう」三太にうながされ、マノンは走りだす。
目の前で殺されそうなヒトを見捨てなければいけないの?
マノンはためらっていた。走る速度が落ちる。
このままだとハーデスさんは、殺されてしまう。いま戻れば、助けられるのでは?
――いや、だめだ。自分の気持ちで動けば、全部だめになる。
ハーデスさんだったら、きっとそうする。……。ペパぁ。
反対側の坂へまわると、宙へ投げ出されたハーデスが目に入った。タワーの中央にぽっかり空いた穴がモンスターのように、口を開けている。ハーデスはみるみると小さくなり、やがて消えた。
変身できないのに、この高さから落ちれば――
 ふとマノンは何かの視線に気づいた。クズリのように獰猛な目が、無表情でこちらをじっと見ている。立ちつくして動かないまま。首だけがこちらを追いかけてくる。
マノンは恐怖で血の気が引いた。あいつが来る、来る、追いかけて来る。
ペパーとハーデスさんを殺したあいつが。
歩いているのに、走っているこちらと確実に距離を縮めてくるちぐはぐさが余計に、恐怖に拍車をかけた。ドシンドシン、ガラガラと、さっきの光線でもろくなった坂を崩しながら、来る。
あれだけ坂をうろついていたサンタも、いまやちらほらいるだけとなった。もともとこのポロ・コロ一帯の立ち入りが禁止されていたことと、さっきハーデスが光線で蹴散らしてくれたおかげだ。三太とマノンは踊るように歩くサンタたちをかわし、走った。
途中、光線で崩れかけた坂にさしかかった。下をのぞくと足がどうしようもなくふるえたが、そんなこと言っている場合ではなかった。マノンはここに来て、不快と恐怖のフルコースを堪能しつくしたのだ。どっちみち飛ばなければ、死ぬだけだ。しかし頭ではわかっていても、体が動いてくれない。そのとき、頭の中で声がした。――あーあ、ペパーもハーデスもかわいそうになぁ。せっかく身を張ったってのに、高いところが怖くて飛べませんでした、浄化もできませんでした。がオチじゃ、転生してもしきれないだろう。お笑い種だな――。マノンは飛んだ。むかつく。でも勇気が出た。
――浄化すれば、助かるんだ! やらなきゃ! わたしたちにかかってる!
マノンは立ち止まった。
「待って三太くん」
「何やってるんだ、早く逃げなきゃ」
「戦わなきゃ」
「戦うだって? ふたりだけで何ができるんだ、正気か!?」
「このまま行けば頂上にゴールできる。でもそのあとは? あいつをなんとかしないと。芳香器を壊されたら、浄化できなくなる」
「でも――」
「わたしたちでやらなきゃ! やるのよ! 念力はまだ使える? 魔法は? 他に何かできることは? 持ってるものは?」
「持ってるのは、この銃ひとつだけ。携帯空間へのアクセスができなくなってるから、他に道具は取り出せない。念力は、少しだけなら。魔法は使えない」
「わたしにまかせて、いい作戦があるの」

 一周下から怪物の姿が見えた。マノンは目をつむり、深呼吸する。大量の砂糖に豚骨とガソリンを混ぜたような不快な臭い。マイナデスコールが肺から血管に侵入してくる。体内にかすかに残ったペパーミントの成分が、侵されないように守ってくれる。
オレンジ、お願い。力を貸して。霊だから、きっと通じてるよね?
わたしはオレンジ、わたしはオレンジ、わたしはオレンジ。
勇気と機転をわたしにください!
 目を開くと、思い描いた距離にやつはいた。牙をむきだしにして、グルルとうなっている。
マノンはオレンジになりきって息を吸うと。
「よぉ、デカいの! 教えてくれ、いったい何食ったらそんなにデカくなるんだ? サンタはみんなそうなのか? それはありがたい。それだけのパワーがあれば、ニンゲンさまの奴隷として思う存分期待できそうだ。ありがとう! ニンゲンさまの奴隷として、これからもがんばってくれ!」
 言いながらマノンは、手すりに近寄った。これでこっちへ来るはずだ。
しかしマノンの予想とちがい、ビッグ・サンタは挑発を気にもしなかった。口から撃たれたビームで手すりや坂を壊し、念力で底へ落とす作戦は陰りを見せる。
「攻撃してこないぞ、言語を理解できてないんだ!」となりの三太が不安そうな顔をする。
「たいしたことじゃないわ」マノンの顔はしぼんでいた。「挑発がだめなら、物理攻撃よ」
 ふたりは、そこらへんに散らばっていたがれきを投げはじめた。
何度も何度も顔に当てたがビッグ・サンタはまったく意に介すことなく、進んでくる。
「こんなはずじゃ……」
「やっぱり逃げるしかない!」
 三太に手をひっぱられ、マノンは走った。
作戦は失敗だった。このまま芳香器のとこまで行っても、動かしてる間に壊されたら元も子もない。何か他に方法はないの?
ふと、マノンの頭にガトフォセの姿が現れた。
いつかのリビングでの話が思い起こされる。
頭の中のガトフォセは言った。昔、ひどい火傷を負って病院で入院したとき、となりにずっと寝たきりだった人がいたんだ。医者からはいつ目覚めるかわからないって言われて、ほとんど見放されてたのに、毎日奥さんはその人に話しかけるんだよね。もう意識がないのに、よくやるなって聞いてたんだけど、ある日、その人の意識が戻って、しかも奥さんの話の内容を、はっきりとじゃないんだけど、覚えてる。そのときぼくは、人間の能力、いや――愛の力を思い知ったよ。意識はなくても体は生きてる。寝ていても肺や心臓が動いているように、耳も機能してるんだよ。でも、あれは他の人の声じゃ、目覚めなかっただろうな。あぁ気になる、実験する機会があればなぁ。
――もしかしたら、マイナデスコールに侵されていても、声は届くかもしれない。
「三太くん、お願いがあるの」
「もういい、早く芳香器を動かそう」
「ちがうの、一回だけでいいから説得して」
「言葉が通じないよ」
「なら、心でしゃべって! 念じて、霊ならできるでしょ!」
 マノンのただならぬ気迫に気圧されたものの、三太は七メートル先を見てさらにひるんだ。あれを説得? あの魔神みたいなモンスターを? ハーデスよりハーデスらしいんだぞ。
「お願い、三太くん!」
「わかったよ、どうすればいい?」
「自分で考えて」
「適当だな!」
「響く言葉で、説得して! あなたの声ならできる。たぶん」
「できなきゃ死ぬだけだ」
 ビッグ・サンタはもう目前だ。三太は叫んだ。
「ボス、止まって! ぼくだ、三太だ! 止まってくれ! マイナデスコールに負けるな!」
 ビッグ・サンタは止まらない。三太は腹の底から叫んだ。
「あなたがいなくなれば、第七文明を支える精霊の一角が崩れる。そうなれば、ここぞとばかりに人間に恨みを持つ霊たちが暴れ、地球が混乱します! 正気を取り戻して!」
 天井が近くなり、ふたりの背には扉が近づいていた。扉まで最後の一周だ。
「おっさん! あんたいったい何やってんだ! ビッグ・サンタともあろうものが、情けない! 見損なったぞ! このクズ! クズクズクズ!」
 その言葉を聞いたビッグ・サンタは歩調を速めた。
「なにやってんの!? 挑発じゃなくて説得してよ!」
「コイツには無駄だ。ビッグ・サンタと言われ英雄扱いされてはいても、結局はただの呑んだくれ! 老害だ! 老害はとっとと隠居して、若いサンタたちに道を開けろってんだ!」
 ビッグ・サンタが走った! マノンと三太にはもう逃げ場がなかった。背中が扉につく。マノンは顔を手でおおった。三太が魂をこめて、叫ぶ。
「あんたが本当にビッグだったのは、地球大混乱時代までだ! 植物至上主義者、レプティリアンの大侵攻! 悪霊の軍勢! いまのあんたはそいつらとなんにも変わらない! 何やってんだクズ! ふんぞり返ってないでちゃんと仕事しろ! 給料はらえ! 有給使わせろ!」
 大きな足が、当たる――そう思ったマノンは三太に抱きしめられ、恐怖と安堵がごちゃまぜになる。「ごめん」その言葉が、守ろうとして体を抱きしめたことについてか、説得が失敗したことについてか訊ねるには時間がなかった。蹴られた三太の体。三太と扉に押し潰されるマノン。そのはずだった。しかし実際は、むぎゅっという感じで扉に軽く押しつけられただけだった。それでもマノンにとってはけっこう痛かったが。
「うぐ、ぐあ、この野郎、言いたい放題こき下ろしやがって」
「ボス……まさか、本当に戻るなんて」
 ビッグ・サンタはひざをついて、顔を近づけた。
「なんで、こんなことに、なっちまったんだろうな。せっかくの祭りだってのにっ、ウッ」
「ボス!」
「おまえら、まさかここにいるとは。芳香器があるって、なんで知ってんだ?」
「ケオロウが教えてくれたの。ここに行けって」
 ビッグ・サンタは、マノンの青い瞳を見つめた。
「人間とサンタが手を組むなんて、写真におさめたいな。おまけにいいカップルだ。そんじゃ、じゃあな」
「どこへ?」三太は追いかけようとしたが、マノンに腕をつかまれ、行けない。「何するんだ、離してくれ!」
 ビッグ・サンタは手すりへ向かう。
「もう、限界なんだ。いまにも意識が飛んで、おまえらを襲っちまいそうだ」
「ボス、待って! もう少しなんだ」
「ねえ、あなた、クリスマスおじさんで一番偉いヒトなんでしょ? もう少し待てば、芳香器で――」
「一瞬の迷いで、全部ダメになるんだ。気持ちだけ、受け取っておく」
 ふたりが息をのむのと、ひとりのサンタが飛び降りるのは同時だった。